よしなしごと 再開
最近、スマートフォンを見つめてぼーっとしている時間が以前より長い気がする。
何か物足りない、少しでもつまらないと思うと無目的に携帯を開いて、TwitterかInstagramを起動している。
いわゆるスマホ依存、というやつか。
在宅勤務が始まってここ最近、特にそれが酷くなった。なんだか気疲れするしイライラする。
もう見るのをやめようと思うのに、自分でも気がつかないうちに親指がアイコンをクリックしている。
それならさっさとやめればいいのに、と思うでしょ。これがなかなかやめられない。
ところで、昔『インターネットは目的ありきで使われがちだから情報が偏る!』という言説が盛んに取り上げられていたと思うんだけど、最近のわたし自身の話でいうと、全くこれに当てはまらない。というか目的意識を持ってネットを利用したことなんて殆どない。無意識的にSNSやらサイトを開いてるだけ。それでも結局情報は偏ったままだし、どこか息苦しいのも変わらない。
目的がなければ自由に幅広く情報にアクセスできるかというとそんな事はなくて、自動的にプログラムが提示してくる情報に依存するようになっただけ。むしろより視野狭窄に陥ってるような気がする。閉塞感を感じる。
心の虚しさをどうにか誤魔化すために存在するかどうかもわからない"他人"のアカウントが垂れ流す、嘘か本当かもわからない言葉の雪崩に潰されるようにSNSを見てしまう。
結局何をしているのかというと、じっくり脳内に留まって孤独を見つめることや考えることを拒否しているだけだと思う。もっと感覚的に言えば『考える"面倒"や孤独と向き合う"鍛錬"といったものを避けている』という感じ。
現代人だもの、合理主義的で楽でスマートなのが好きだからね。
ところが、好き放題やればやるほど何だかつまらなくて疲れるようになったので、どうせスマホ依存ならせめて自分の考えをアウトプットするようにしよう、前に述べた"面倒"や"鍛錬"を進んでやってみようと思い立った。それで今久しぶりに記事を書いている。
話は少し変わってインターネットとか本とかについて。
インターネット黎明期、当時の世の中には(インターネットはきっと平等でいろんな可能性を与えてくれる!遠くの誰かの多様な意見に手軽に触れられる!』という幻想論があった。
けれど結局そんなことはなかった。
人間が一度に受け取れる情報量なんてたかが知れている。処理しきれない情報は無視されるか否定されてしまうことが多い。SNSがあれば様々な見解に触れられる、というのはあまりに都合がよい。
平等についても、多様性の話と同じ。
情報の透明性は多少進歩があった(公権力の情報にアクセスしやすくなったし、行政側も昔よりはそれに対応してると思う)けど平等に寄与するほどじゃなかったし、新たな技術(インターネット)の急速な浸透は、教育格差や権威をより可視化しただけだ、とおもう。
近代に入ってからも社会的(職業的)階層に基づく身分差が暗黙的に存在するのは今も変わらない。これは人類が数(今では"影響力")の力に左右される民主主義を神格化し、資本主義に依存した瞬間から変えようがない。永遠に追いかけてくるカルマみたいなものだ。
インターネットがあるからイーブンになる、なんてのは幻想に過ぎない(というかある機械/接続手段を持っていないと参画できない自由なんて自由ではない)。それに、平等とか公正とか、そういうものを確立するのってやっぱり技術ではなく人間の倫理だよね(今回のコロナ騒動で特にそう思った)。
今、わたしたちは窮屈で歪な言論空間を、また昔みたいにもてはやしながら、人類史未曾有の疫病と闘っている。
人々は(私も含めて)電子世界の中に溢れるあまりに人工的なユートピアに癒されながらどうにかこの苦難を乗り越えようとしている。けどいつまで持ち堪えられるだろうか??
わたしの部屋にたくさんの本があってよかった。窮屈で歪な言論空間にいなくても、わたしの脳味噌の中でこだまする言葉をきくことができる。考えることができる。
手軽じゃないかも知れないけれど、こちらの方がより多様な見解に触れられている気がする(というか手軽に触れられる多様さなんてものも幻想でメディアの作り出したユートピアなんじゃない?)。
とてもじゃないけど、世紀のヒーロー"インターネット"だけじゃ持ちそうにない。
わたしは、わたしの部屋のぬいぐるみと大切な本に囲まれてなんとか深呼吸する。
お、なんだか明日も元気でやっていけそうな気分になってきた。やっぱ、徒然なるままに日暮らし硯に向かひてよしなしごとをかきつくるの、だいじだね。よしなしごと 再開してよかったな。
明日も機嫌よくがんばれますように。